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『美しい世界』

 

木の匂いがした。
その匂いで目を覚ました。
目を開けてもそこは真っ暗だった。
体がひどく冷たくて重たい。頭がぼんやりする。しばらく呼吸を繰り返すがひどく息苦しい。よくよくにおいを追うと土の匂いもする。
ここはどこだ? そもそも、自分がなんなのかわからない。
手を動かそうとするとすぐに肘が何かにぶつかった。
……何かの中にいるのだろうか。そう認識すると急に圧迫感を覚えた。
ぶつかったそこに指を這わせると、感触は滑らかだったりささくれ立ったりしている。
顔の前。側面。背中側。足先。全てが行き止まった感覚。
……木の香りはここからしたのか。だとしたらこれは木の箱なのだろうか。
……もしかしてもしかしなくても、これは、棺の中なのか?
あ、まずいな。ならこの息苦しさは空気が尽き掛けているからか。

真っ暗な中、死に向かってると思しき状況で自分の頭は奇妙に冷静だった。
自分の眼前の壁に手をついて思いっきり力を込める。だが、全身の力もこの体勢で込められるわけでもなく、また、腕だけの力でも十全に動かせるだけのものでもなく、予想が正しいなら土の重みで、ほぼほぼ上に上がらなかった。だが、僅かながらミシミシと壁が上下に動いたことから、これが蓋であることに間違いはないようだ。

それがわかったところで、この状況を打開できるわけではないのだが。

「……どうするかなあ」

体は伸ばせるが、体を曲げられたり寝返りを打てるほどの幅はない。
なるほど。これは、気が狂いそうだ。体の自由が効かないというのは、これほどに精神を蝕むのか。
これはいけない。
他の方法を考えるか。
手をやや動かすとカツリと指に硬く冷たい感触があった。不思議に思ってそれを掴むと、細長い円筒状の何かだった。
ツルツルとしており、触っていたら半分が割かれた状態になり、それを元の形に合わせるとカチリ、と音を立てた。
暗闇の中でその正体はよくわからなかったが、その円筒状の何かで少し気は紛れた。

さて、改めて考えよう。
十全に力が出せない状況。
限りある空気。
自分がもっとも効率よく助かる方法はなんだ?
声を上げても空気が勿体無い。そもそもどのくらい下に埋められてるかわからない。
……だったら。
持っていた円筒状の何かを、目の前の木の蓋に叩きつける。

ガツンと大きな音がした。

賭けに出ることにした。
何もせずに酸素が尽きて死ぬか、気が狂って死ぬか。
それだったら可能な限り、棺の蓋を壊す。木なら一方向に割けるかもしれない。そうすれば、重みで土が落ちてくるだろう。土で窒息する可能性もあるがそんなこと知ったことじゃない。

それに音だって出る。誰かが通り掛かれば気付いてくれるかもしれない。

さあ、自分は死ぬか、生きるのか?

自分が誰かもわからないまま、己の生死を自分で賭けた。
そんなところから人生が始まった。

円筒状のなにかを何度も蓋に叩きつける。手が痛いし、腕が疲れる。
だが、確実に穴が穿たれる感触がする。幸いなことにそこまで厚くはないらしい。
どれほどやったかわからないが、小さな穴が、いや、裂け目ができた。裂け目を裂くようにもうまた穴を穿つ。
嫌な音がした。
ああ、そうだ、口を塞いだほうがいい。
着物の袖口を思いっきり引き裂き口に巻きつけた。頭が痛い。そろそろ限界か。

目を瞑る。息を整える。
そして、裂け目に向かって思いっきり腕の力で押した。
そしてそれは雪崩のように来た。
板は割け、己の体に思いっきり土が降りかかる。
控えめに言って痛い。この混濁は予想以上だ。
ある程度予想はしてたが、割れた板が思いっきり体に叩きつけられたし、顔に土が降りかかる感覚が恐ろしくてたまらない。

だが、割れた。
もう猶予はない。
円筒状のなにかを握りしめたまま、もう片方の手とそれで掘り進めた。
目だって瞑ってる。口にだって布を巻いた。異物が体内に侵入し、狂乱に陥る確率は下げた。
苦しい。怖い。だが、やるしかない。

でもその考えは甘かった。足でもがき、手と円筒状のそれで掘りすすめるも、圧倒的な質量にすぐ限界がきた。

ああ、くそ。ダメか。
でもまあ、仕方がないよな。
がんばったがんばった。狂わずによくがんばった。ぼんやりと死ぬならまだ、怖くはない。
……悔しい。死ぬのが怖い。生きたい。でも、仕方がない。そういうことだって、あるんだ。
何もわからず、誰に知られることもなく死ぬ。
そういうことだって、あるんだ。

もがくのをやめた。体の力を抜く。あとはもう少し待つだけだ。


ーーーーーーー

 

「あんれ、地面がへこんどるが、どうしたかいねえ」

「わんっ」

「うん? どうしたんだいシロ。ここ掘れってかい? あれあれ、お宝でもあるんかいねえ」

「わんっわんっ!」

「あれあれ、一回掘ったのかねえここ。少し柔らかい……これこれシロ、そんなに勢いよく掘ったら汚れちゃうよぉ。ん? これは……ひっえ」

「ひ、人が、人が埋まっとる……!  し、死んどるんか……? お、おい、あんた、あんた!」

「わんっ!」

「…………生きてる」

「……あ、ああ、あああ……ちょ、ちょっと待っとき、すぐ土退けたるから……」

「……はは、期待も捨てたもんじゃなかったか」

「わんっ!わんっ!」

「……君、そう耳元で鳴かれたら、うるさい」

 

ーーーーーーーー

 

助けてくれた老人はロクに歩けない自分に肩を貸してくれた。シロと呼ばれる犬は先頭を歩きながら、自分たちが付いてくることを確認するかのように時々振り返っている。
少し歩いた先に川があって、そこで一度降ろしてもらった。
未だに目はチカチカして眩しいが、たっぷり息が吸えるのが心地よかった。水の匂いと草の匂いが胸に広がった。

「あ、あんたなんであんなとこに、それにその服……」

「わからない。気付いたら、棺桶みたいな中にいた」

「名前はわかるかい?」

「わからない。何も、覚えてない」

「……そうかい」

「あ、お礼。ありがとう。助かった。板壊したまではよかったけど、掘ってる途中で力尽きたから」

「ああ、それはいいけども」

「わんっ!」

「ああ、君もありがとう」

「わんわんっ!」

「……あんたも何にもわからずじゃ、仕方がないね。水浴びした方が早いだろうが、春先でまだ水が冷たいからねえ。とりあえず濡らしてきたこれで顔拭きな……いや、拭いてあげるから顔こっち向けて」

「ありがとう」

「本当に、まあ、これが黄泉がえりってやつなのかねえ、運が良かったのか悪かったのか。あんた行く当て……ないか」

「ない。でもまあ、なんとかなるだろ」

「ならんだろう……仕方ない、いっとき面倒見てやるからしばらくわしの家にいな」

「……それは、助かる」

「ほい、これでとりあえず顔は終わり……あれあれ、あんた随分と顔が整ってるねえ。もしかして女子だったんか?」

「ん?  そうなのか?  んー、男、だと思う」

「ほれ、川覗いてみ」

「……ふーん。こんな顔なのか」

「本当に何も覚えとらんのねえ」

「あっ」

少年とも青年ともつかない年齢の男は唐突に上を見上げる。

「どうしたん?」

「空、きれいだなあ」

「……あんた、本当にさっきまで土の中にいた奴の言葉かね。呑気だなあ」

「だって、きれいじゃないか」

「あー、あー……そうだね。もう少し休んだら、歩くからね」

「わかった。ねえ、あんた名前なんっていうの」

「わしか。わしはなあ、猫野正吉。猫じいとか言われとるなあ」

「ふーん」

「わんっ!」

「……犬と猫。ふっ、あっはっはっは!なんか相性良さそう」

「なーにがおかしいのやら……あんたもまあ、名前がない以上、あとで代わりのやつつけたるから、それでしばらく我慢せい」

「おっ! じゃあ格好良いのつけてくれ!」

「はいはい……猫と犬と馬、他色々の次は人拾ってしまったわ……婆さんに怒られるかなあ。ま、いいか」

 

 

名前のない黄泉がえった男が猫野正留と呼ばれるまでの話。
円筒状の何かは今使ってる髪留め。

あまりにも過去が浮かばなくて考えた結果、なんかこうなりました。

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