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小林の過去の話2

 

「あのじじい……なーにが好きなことできるだ。くっそ忙しいじゃねーか」


疲れた。とにかく疲れた。休めるどころの話じゃない。授業や実験計画、テスト採点、生徒指導、やることが万歳過ぎる。何より、生徒からの相談が予想以上に多い。思春期こじらせたガキたちでもそれなりに悩みはある。悩みに子ども大人も関係ないのは当たり前ではあるが、何故俺に相談する。

『だってコバセン聞き流してるようでちゃんと聞いてくれるしー』
『あとアドバイスもくれるしさ』
『なんだかんだ面倒見良いよね』

とは生徒の談だ。
何故だ。適当にあしらっていたはずなのに。ますます好きな事をする時間が無くなる。


「くそ。こうなったら意地でも好きなことしてやる」


何事もパターン化だ。悩み相談も授業もルーチンワークにしてしまえば、体も口も勝手に動いて効率化が図れる。そうすれば隙間時間が出来て、やりたいことが出来る。次の実験はどうするか……


「……アホか」


何を楽しんでいるのやら。ちっとも休めてないのに。いつの間にか『次』を考えてしまっている。
もしかしたら、教師は自分に向いているのかもしれない。そう単純に思ってしまうくらい、自分は疲れてるのかもしれない。
まだ、少しだけ続けてみよう。

「せんせー! おはようございます」
「うーす。はよ」


今朝は生徒指導の挨拶の立ち番だ。在校生からの挨拶を適当にこなしていた。新学期が始まり、新しい顔も増えたため、まだ顔と名前の一致しない生徒が多い。何年やっても立ち番はどうにも眠たい。おまけに春の気温で余計にまぶたが重かった。そもそも挨拶はしたいやつだけすれば良いのに。なんでこんな無駄な事をするのやら。
あくびを噛み締めて、いつも通りやる気なく挨拶を返した。
ふと、一人で登校する生徒が目についた。
行きすがら会う友人たちとグループになって登校する生徒が多かったからかもしれない。だが、それだけではなかった。
あまりにも似ていた。
黒い髪に、右目の下の小さな泣きぼくろ。長いまつげとくっきりした二重瞼。色白で優しげな輪郭。
心臓が止まりそうになった。息の仕方を忘れそうになった。


「……ねえさ……」


口をつぐんだ。
違う。
姉さんじゃない。
彼は、あの子は、光希だ。
俺が見捨てた、あの日手を振り払ったあの子だ。
あまりにも似ていた。髪型と、暗い顔をして俯いていること以外、ほとんどそっくりだった。
どうして。そうか。当たり前か。もう10年近く経つ。あの子はもう高校生になるのか。
引っ越してなければ、この学校に通う可能性だってあった。当たり前のことを何故考えられなかったのだろう。


「あ、の」
「……」


あの子が話しかけてきた。平静を装え。気づかれてはいけない。いつも通りの顔でやれ。大丈夫。俺ならできる。


「はよっす」
「おは、よう、ござい、ます」


光希は酷く吃りながら挨拶を返した。どうしたんだ。コミュ症か。こんなに暗い子だっただろうか。いや、そうか。変わるくらい離れていたのか。俺は。
光希は挨拶をしたらそそくさと下駄箱へ向かっていった。
同じ立ち番の先生に呼びかけられるまで、俺は挨拶を繰り返すだけになった。

忙しい日々で少しだけ姉さんを思い出す回数が減っていた。
それなのに、あの子が、また俺の前に現れた。
思い出すな。ダメだ。また戻ってしまう。ダメだ。
これは何かの罰なのだろうか。
忘れよう。忘れてしまえ。見なかった事にしてしまえ。
見なかった事にしよう、忘れた事にしよう、そうするべきだった。
それなのにあの子を見るたびにどうしても意識を向けてしまう。
姉さんの忘れ形見。
そう思ったら、あの子の事をどうしても見てしまった。

廊下ですれ違い挨拶をする。授業の質問に答える。それだけで良かった。光希は理科科目、特に化学が得意なようだ。やはり姉さんとあの義兄の子なのだなと、それが何となく繋がりを感じて、胸に嬉しさと寂しさを覚えた。

いつの間にか穏やかに見守れるようになっていた。姉の事を思い出すが、あの子の幸せを願わないはずがなかった。健やかでいてくれればそれで良い。それだけで良い。そう思っていた。
だが、あの子に対する一抹の不安がどうにも拭えなかった。毎日一人でいる。一人でいるのが好きなやつだっている。夏でも長袖に薄手のカーディガンを着ている。日に焼けるのが嫌なのかもしれない。時々学校を休む。体調が悪いのかもしれない。ひどく吃っている。ただ話すのが苦手なのだろう。
どんどん考えたくないことから頭を遠ざけた。
もしかしたら、父親とあまり上手くやれていないのかもしれない。そうだとしても、俺にはもう関わることは出来なかった。出来たとしても、せいぜい『先生』としてのアドバイスくらいだろう。

光希の担任になってから数日が経った。初めて3年の担任を請け負う事になったが、まあいつも通りやろうと思えるくらいには、自分の顔の皮は厚くなっていた。

理科実験の備品整理を行った。定期的に足りない備品の補充や使用期限の切れた薬品の処分を行う。まとめて全部は行えないため、区画を決めてローテーションで整理した。足りない備品は倉庫から持ってきて、さらに補充する分は事務室に頼んだ。ようやく整理が終わったところで、携帯がない事に気付いた。机や本棚、ポケットを探すが見当たらない。


「あー……倉庫か?」


そういえば携帯のメモ機能で作ったリストを見ながら備品を足していたんだった。おそらく棚かどこかに置きっぱなしにしてしまったのだろう。
面倒だが取りに行くことにした。

倉庫の扉前まで来ると隣から物音がした。ここは利用されてないはずの空き部屋だったはずだ。誰かサボっているのだろうか? ため息をつきながら若干空いているドアを押した。
そこには着替えをしている生徒がいた。
こんな時期に長ジャージを着た男子生徒。
光希だった。何故こんなところで着替えているのだろう。
何にせよ覗きの趣味はない。すぐに立ち去ろうと思った時、あの子の腕を見て目を離せなくなってしまった。
何度も同じ場所を強く握られた大きな手形の痣。身体中についた打撲痕。そしてーー。
そう考えた瞬間、吐きそうになった。口元を抑えながら吐き気を堪えて、音を立てないようにその場を去った。
まさか。いや、だったらあの痣は何だ? イジメを受けている? その様子は無い。気付かないはずがない。
嫌な考えがよぎった。
あの義兄さんが?
親子関係が悪いどころの話ではなかった。
あの子は、虐待を受けているのではないか。
嘘だ。信じたくない。でも、だったら何故痣がある。何故いつも長袖を着ている。何故あの子はあんな暗い顔をしている。
早めに学校を出て帰宅した。何度も考えた。どうすれば良い。何をすれば良い。何をして上げられる。気づいた時には部屋が真っ暗で、隣家の漏れた光が入ってきていた。

「……お久しぶりです、に……先生」
「……ああ。久しぶりだな。三雄くん」


ずっと持っていた写真の顔とは、顔付きが随分変わっていた。笑顔などどこかに置き去ったような、冷酷な顔だった。10年近く音信不通だった義弟からいきなり会いたいと言われたら、そんな顔になるかもしれない。


「俺、高校の化学教師になりました」
「そうか」
「光希の担任になりました」
「そうか」
「今日はお願いがあって来ました」
「何だ」
「光希は化学に対する興味と才能があります。だから、授業外でも教えてやりたいんです。それに関して許可を得に来ました」
「何故わざわざ? 今更光希と関わってどうする気だ」


淡々とした返しだった。威圧で怯んでしまいそうだが、ここまで来たからには引くわけにもいかなかった。用意した台詞を確かめるように一言一言はっきりと伝えた。


「……叔父だと名乗り出るつもりはありません。ただ、一人の教師としてあの子の才能を伸ばさせてください」


義兄は俺を鋭く一瞥した。蛇に睨まれた蛙の心境とはこういうものだろう。数瞬にも満たないその時間がどれほど長く感じたことか。義兄の吐いたため息で時間が戻った。


「……良いだろう。帰宅時間は守らせてくれ」
「……はい」


義兄は即座に去っていった。体のこわばりを今更実感して深く息を吸って吐いた。
自分に何を出来るかを考えた。『叔父』としてではなく『教師』として光希と出来る限り接する。一度他人になった俺にできるのはここまでだ。
もし虐待が事実であったら慎重にやらなければならない。
まずは少しでも良い、光希に心を開いてもらおう。そしてこの実験で気晴らしになるのなら、何かの糧になるならそれで良い。

「和歌月」
「は、はい」
「お前化学実験好きか?」
「え、あ、えと、はい」
「なら今日から実験付き合え」
「え、ええ?」
「今日も居残り勉強する気だったんだろ?」
「あ、えと、でもボク、帰る時間、あって」
「あー門限? なら連絡取っとけ」
「あの、あの……」
「お前の親父さんにちょろっと会ったんだよ」


光希は肩をビクリとさせた。あまり良くない顔色が更に青ざめた。


「父さんに、です、か?」
「おう。まあちょっとした知り合いでな。実験つき合わせるかもしれねーって話してあるから多分大丈夫だけどな」
「……父さんと、知り合いなん、ですか?」
「すんげー昔に同じ柔道教室に通ってた」
「あ、そう、なんです、ね」


光希少し驚いた顔をした。この範囲でなら多少は怪しまれないだろう。


「ほれ、お前やるの? やらんの? やるなら連絡」
「あの、やり、たいです。父さんと、電話してきます」


光希はおずおずと電話をしていた。数分の会話のうち、こちらに来た。少しだけ嬉しそうな顔をしていた。初めて見る表情だった。


「あ、あの! 良いって、言ってました。あの、よろしく、お願いします」
「おう。じゃあ白衣持って実験室な。無かったら貸すわ」
「は、はい」


暗い表情ばかりだったから、この表情は新鮮だった。少しだけ自分も笑っていた。

心を開く、というのは中々難しいものだった。
実験の説明等は得意だ。自分の体にしみついてるものだからだ。
まともに何年もあっていなかった縁者に、しかも虐待を受けている可能性の高い子どもに接することなど全く予想だにしていなかった。どう切り出していいのか全く分からない。


「そういやさ」
「は、はい」
「お前の家門限厳しいんだな」
「……はい。父さん、心配、みたいで」


光希は暗い顔をした。実験の手は止めないが、少しゆっくりになった。


「へー。お前もしかしてあんまり親父さんと仲良くない?」
「…………」


光希の手が止まった。こちらを見る目は青ざめている。口をもごもごとして何を言うか迷っている様子だ。失敗した、と感じた。
 

「まあ、そういう家もあるか。あ、今日の菓子カロリーメイトだから」
「……は、はい」


俺は即座に話を切り替えた。光希は少し安心した顔をしたが、気まずい空気は拭えなかった。

「おう、和歌月。今日も実験するから」
「は、はい。よろしく、お願い、します」


光希はその言葉にどこか驚いたような、ほっとした顔をしていた。やはり、あまり踏み込んだ事は現段階では難しいらしい。周囲に対する異様な気遣いと怯え。もしかしたら一度質問に答えなかったくらいで実験に誘われなくなるとでも考えたのだろうか。だとしたら、悪手だったかもしれない。関係性を聞く、というのは本人にとってはかなりデリケートな問題なのだろう。
そして、俺に対して少し苦手意識があるのかもしれない。自分はそこそこ体格も良くて表情があまり変わらない上に愛嬌もない。もしかしたら父親と同じ『恐怖対象』と捉えているのではないか? そうであれば、息抜きどころかストレスになりかねない。常に気を張るのは、考える以上に疲れる。何か良い方法は無いだろうか。

今日も実験を行う。光希は先に行かせ、俺は少し考えていた。
ふと、教室に残った生徒たちを見て、妙案が浮かんだ。俺でダメなら、同じ生徒間でならどうだ?
三人の生徒に目がついた。

 

俺は、この三人に声をかけることにした。

「おう、お前たち暇か? 暇だよな? じゃあちょっと実験手伝え」

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