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小林の過去の話1

 

姉さんが死んだ。


寮母さんが伝えてくれたそんな話をどこか他人事のように聞いていた。
調査中に氷の裂け目に落ちてーー。遺体は回収できずーー。義兄は精神衰弱による入院ーー。
夢を叶えたはずだったのに。義兄さんと一緒に。
帰って来たらたくさん話を聞かせてくれるって言ったのに。


どうして。何で。どうして。どうして。


何も考えたくなかった。


全く心の整理すらつかないまま、死体すらない葬儀が始まっていた。


呆然とする喪主の義兄がいた。多くの人間に話しかけられる中、心ここに在らずといった様相でいた。俺は何も言えなかった。
遺影には優しく微笑む姉さんが写っていた。
菊の花ではなく、姉さんの好きだった彼岸花が備えられていた。
ぼんやりと何をするでもなく立ち尽くしていた。
ふと、服の裾に違和感が生じた。
見ると、小さい紅葉のような手で俺の服を掴み、ぼんやりと俺を見上げる光希がいた。まだ小さくて、幼くてーー姉さんに似ている。
そう思った瞬間、光希の手を振り払って走り出していた。違う。あの子は姉さんじゃない。姉さんは死んだ。違う。あの子は違う。姉さん。姉さん。姉さん。姉さん。
足が縺れて転んだ。周りの人間は俺を見てひそひそ話していた。心配して声をかけてくれた人を無視して俺は立ち上がった。

 

「……姉さん」


フラフラとあてども無く歩いた。


「なんで死んじゃったんだよ……何で、な……ん、で……」


涙すら出なかった。姉さんの死を、俺は全く受け入れられなかった。

葬儀の日から義兄とは連絡を取らなくなった。



それからの日々は、どこか俯瞰しているような、実体験が全くないような感覚だった。
受かっていた大学に通った。ただがむしゃらに勉強した。何かしないと姉さんのことを思い出してしまう。いつか三人で南極へ。そんな夢はもう叶わない。なら何故俺はこんなに頑張っているんだ。
院を卒業する頃には、俺は一財築いていた。周りからは賞賛された。でも、一番褒めて欲しい人は、もうこの世にはいなかった。

今日はいつだっけ? ああ、確か今日は、姉さんが死んで6年が経つ。もしあの時、義兄家族から離れなかったら、今頃七回忌でもやっていたのだろうか。
手帳に挟まれた写真を見た。


「何で俺、頑張ったんだろうな、姉さん。なあ、姉さん。俺もう疲れたよ」

もう死んでしまおう。

そう考えたら、どう死ぬかが問題だった。
どうしたら手っ取り早く死ねるだろう。
ロープで? いや、これでは十中八九切れる。
包丁で手首を切る? いや、出血量が足りなければ最悪貧血だけで終わる。
ならビルの屋上から飛び降りるか? 走る電車に体を躍らせるか? いや、人に迷惑をかけてはいけない。
思わず笑みが零れた。自嘲の、だが。
死んだら迷惑も何も無いじゃないか。なんだかんだ理由をつけて俺は生きようとしていた。何故今更。
こんなに疲れたのに。こんなに姉さんに会いたいのに。姉さんはもういないのに。
ーーああ、そうか、俺は姉さんを思い出せなくなるのが怖いのか。
俺がいなくなったら、俺の知る姉さんを誰が思い出すのだろう。両親もいない。もう、あの家族を知っているのは俺しかいない。
そう考えたら、こんな燃え残りでもまだあった方がマシだと思ってしまった。
休みを利用して、少しだけ育った街へ帰ろうと思った。全部思い出せるだけ思い出して燃え尽きたら、死ねるだろうか。

思い出の場所をフラフラと巡った。
水族館、遊園地、旧家、灯台、公園、両親の墓。
姉の墓がどこにあるかは知らない。だから墓参りもしたことがなかった。
転ばないようにフラフラと歩き続けた。
河川敷に出たところで、母校が近かったことを思い出した。


「…………」


少しだけ気が向いた。だから、行くことにした。

母校も相変わらずだったが、少し変わっていた。体育館がやたらピカピカで、新築したばかりらしい。
卒業生とはいえ、許可なく入れば不審者扱いされるだろう。だから遠巻きに見ていた。吐く息が白い。鼻も痛い。そろそろ移動しようか。


「おーい」


どこかから呼び声がした。首を巡らすと、フェンスの向こう側に老人がいた。


「……東先生?」


化学教師の、じーさん先生とあだ名が付いていた、真っ白い頭の先生だった。あの先生に化学を習ってたっけ。


「おお、もしかして小林か? お前元気だったのか」
「……じーさん俺のこと覚えてたんですか」


少し驚いた。卒業してからもう6年も経っているのに。


「じーさんとはなんだ。覚えとるよ。実験の時だけ目をやたら輝かせとったからのう。楽しそうにしてた生徒はいつまで経っても忘れんよ」
「そっすか」
「ほれ、そんなとこに突っ立ってないで上がれ上がれ。茶ぁくらい出すぞ」
「家じゃねーんすから。まあ、お邪魔させてもらいます」


門へ回るのが面倒だったから、フェンスを腕だけで乗り越えた。少し体が鈍っているように感じた。それを咎めることもなく、東先生は俺を見知った実験室へ案内した。

俺から話をすることもなく、東先生の話す取り留めもない話に適当に相槌をうちながら、ゆっくりとした時間が流れた。
ここは全く変わらなかった。
古い骨格標本。埃を被った剥製とホルマリン漬け。薬品の匂い。全部が全部懐かしかった。


「ところでお前今何やっとるんだ?」


急に答えを必要とする会話を打ち込まれた。


「院生です。ぼちぼち卒業ですが」
「ほうほう、院へ進んだのか。で? 卒業したらどうするんだ?」
「いや、特には。教員免許やら危険物取扱者試験やら栄養士やら、色々資格とったんですけど、やりたいことないし。ただなんと無く取っただけで。卒業したらとか全然決めてないっす」
「ふむ」


そういうと東先生は茶をひと啜り飲んだ。


「私はな、今年退職するんだよ。急にガタがきて一年前倒しにしたから、後任探しで今事務がてんやわんやじゃ。はっはっは」
「はっはっはって……」


呑気なものだった。そうか、もうそんな歳なのか。そんなになるまで月日は流れていたのか。


「なあ、小林。お前先生やってみんか?」
「はあ?」


このじじいついにボケたか。そう思った。完全に顔に出ていただろう。そんなこと気付いたのか気付いてないのかじじいは変わらず言葉を続けた。


「教員免許持っとるんじゃろ?」
「いや確かに理科教免持ってるけど。何で急に」
「いやー私もアテがあったら当たってくれって言われとってな」
「はあー……いや俺は」


当然断ろうと思った。これから死ぬかもしれない人間が未来ある若者にモノを教える?先達になる?なんの冗談だ。


「暗い顔しよって。お前さん色々と忘れとらんか? 化学は雑草だらけの地面に道を作るんだよ。それが楽しくて仕方がなかったんじゃないのか? それを思い出せなくなるくらい、お前さん疲れたのか? なーにやっとるんだ。若い者たちに囲まれて、お前さんの好きな実験やってみるといい。きっと思い出せるよ」
「…………」


何だそれは。
そんな自分勝手な授業、出来るわけがない。
暗い顔って、あんたに何がわかるってんだ。
「なーに大丈夫大丈夫。やる子はやるし、やらん子はどこまでもやらん。そのままの君でやってみなさい。君が楽しめば、同じく楽しいと思ってやってくれる子もおる。それでいいんじゃよ」
「…………」
「まあ、気が向いたら受けてみなさい」


返事は出来なかった。
でも、帰る時何故か事務室に足が向かってしまった。
本当にただの気まぐれだった。そして俺は、東先生の後任になっていた。
まだ、少しだけ生きることになった。

俺は、少しだけ休むことにした。

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