『母の話』
一番古い記憶は何だっただろうか。
胎児の頃の記憶?
そんな摩訶不思議なものではない。
歩き始めた頃の記憶?
まったく覚えがない。
もう少し、後の記憶だ。
「ねぇ、これどういう意味」
その問いかけに対し、作業机で本を読んでいた母は、緩慢な動作で、自身よりやや低い位置で本を突き出すように向けている自分を見た。
母は少しぼんやりしていて、あまり焦点が合っていない視線だったから、向こうからこちらに意識が戻ってきている最中なのだと思った。
「どれ?」
ゆっくりと落ち着いた関西訛りの返答がきた。
「これ。この絵のことかいてあるやつ」
指差した文字を、母はさっと眼だけを動かして読んだ。
ゆっくりと、二度瞬きをしてからこう言った。
「一回調べてみたん?」
自分は横に首を振った。
母はまた瞬きをして視線を動かす。
つられて自分も、母の視線の先へ顔を動かしてみると、本棚にあるたくさんの辞書が目に入った。
「下から2段目、左から5冊目の辞書調べてみ」
頷いて、言われた通りの本を手に取った。
両手で持ってもやや分厚く赤い装丁の辞書を、厚紙のケースから取り出した。床で胡座をかいて膝の上に辞書を乗せ、該当する単語のページまでしゅるしゅると、辞書紙特有の音を鳴らしながらめくっていった。
「あった」
「そう」
母はゆっくりと、床に座る自分に近づいてすぐ側にしゃがんだ。やや癖のある結ばれた髪から、フワリ、と自分も使ってるシャンプーと同じにおいがした。
辞書に書かれた四角く囲まれた『類』という部分を指し、再び母に問いかけた。
「これ、なんのマークなの」
「類語の略や」
「るいご」
「同じ意味の言葉。このマークの下に似た言葉もあるから、それも見ていくと楽しいで」
「ふうん」
しゅるしゅりと、先ほど調べた言葉の類語までページをめくる。そのページにもまた同じマークがある。
また、めくる。次も、まためくった。
「いっぱいあるね」
「せやね」
母は新しい単語を見つけては、何度もめくってを繰り返す自分を見ていた。
「楽しいか?」
「うん」
「そか」
ふと、母の口がわずかに笑みの形を作った。
これが、自分が思い出せる一番古い記憶だった。
小学校に上がる前くらいだっただろうか。
ハッキリと、ちゃんと思い出せるのがこのやり取りだった。
家事をする時以外、母は自室で過ごすのがほとんどだった。たくさんの本と、ややほこりのにおいのする部屋。
自分も家にいる時は、母の部屋で過ごした記憶が多かった。
床に寝そべって画用紙にラクガキをした。
ブロックを組み立て、自分でもよくわからないものを作った。
ソファに寝転がって昼寝もした。
部屋にある本を適当に抜いては読んだ。
学者だった母の読む本はほとんどが難しくて、そんな本はすぐに戻した。
この部屋にはとにかく色んな本があった。
母の研究する分野とは全く関係なさそうな、植物の本。
お金についての本。
料理についての本。
飛行機についての本。
どこかの国の歴史の本。
夢物語の本。
分野は問わず、広い知識の泉がそこにはあった。
図鑑や挿絵がある本を見つけた時は、飽きるまで読み続けた。
そんな本でも意味のわからない言葉がいくつかあって、そんな時は母に聞きに行った。
今思えば、とても鬱陶しい子どもだったのではないかと思う。何せ、仕事の邪魔だ。
だが母は全く気にした風でもなく、打てば響く鐘のように、当然のように自分の問いかけに答え続けてくれた。
自分は、同じものごとにはすぐに飽きてしまうところがある。
30分も絵を描いたら飽きてしまう。
ブロックは10回ほど組み立てたら飽きてしまう。
公園の少ない遊具で何度か遊ぶと飽きてしまう。
父との稽古もすでに飽きていた。
だからいつも次の退屈しのぎを探して、ウロウロしていることが多かった。
読書や本そのものが特段好きだったわけではない。
ただ、テレビを見ている時や、知らない場所に行くのと同じように、本は目新しく興味をそそられる内容のものが多かった。
知らないことを知るのは、楽しいことだった。
だから飽き性だった自分でも、母の部屋で、同じ場所で長時間過ごせていたのだろう。
聞けば何でも教えてくれる母のことを、素直に尊敬していた。
自分の知っていることで、母の知らないことなどないと盲信するくらい、母の知識量を信じてやまなかった。
そして必ず、自分に一度調べさせてから補足する形を取ってくれていた。
あれはきっと、自分から学び、新しい知識に触れさせる機会を奪わないようにしてくれていたのだと思う。
だからきっと、そんな母のことは好きだった。
学校の宿題をやる時も、居間か母の部屋でやっていた。自分の勉強机で一人でやる方が稀だった。
中学に上がってからも、同様に母に勉強を見てもらっていた。
鼻歌を歌いながら、ノートに数式を書いていく。
特段得意というわけでもないが、計算するのは嫌いじゃなかった。
数字が目新しいという事はないが、紛らわしさがないという点ではシンプルで好きだった。
あまり地頭が良くない自分でも、解き方さえきちんと分かっていれば解けるのだから、数学以上に解きやすい問題も無いと思う。
問題は国語や英語だ。ニュアンス次第でどうとでも捉えられてしまって、一貫性がなくて苦手だった。作者の気持ち云々に至っては、母が文章に書いてないものはだいたい答えにないと教えてくれるまで、さっぱり解けなかった。
パターンに当てはめてしまえば、なんて事はない。全ての問いかけに法則があるなら、それさえ知っていれば答えに窮する事はない。
……法則を知らない事が出て来た時は、仕方がないが。
そういった法則で乗り切れるテストの結果自体はそこそこ良かった。
ふと、扉の開く音がしてそちらを振り向くと、予想通りの母の姿があった。
「順調?」
「そこそこ」
「そう」
パタリと、静かに扉を閉めて母は近付いてノートを覗き込む。瞬きくらいの時間が経っても何も言わないから、全て合っているのだろう。
「そうだ。明日さ、中間返ってくるから、違ってたとこあったらまた教えてよ」
「ええよ。でも、明日稽古やろ? 帰って来て疲れとらん?」
「…………」
ピタリと、軽快に走らせていたシャーペンを止めた。自分でも露骨すぎると思うくらい嫌そうな顔をしてしまったかもしれない。
忘れていた。
嫌なことを思い出した。
そんな風に、顔に書いてあったかもしれない。
母は黙った自分を見て、ゆっくりまばたきをして、聞き取りやすい声で問いかけた。
「獅月は稽古、そない好きやない?」
「……お父さんとの稽古は、正直つまらない」
一拍、二拍おいて、ポロッと口からそんな言葉が漏れていた。
「そう」
母はいつも通りの口調でそう答えた。
「お父さんも、獅月に少し厳しいからな。でも、お父さんには言わんといてあげてね」
「……言わないけど。稽古の時間、お母さんと勉強する時間にしたい」
「そりゃ私は嬉しいけど、でもお父さんとの時間も大切にしたってな」
「…………」
その言葉に返事はしなかった。
代わりに、ノートに宿題の続きを書いた。
母は返事がないことを咎める事はしなかった。
正直、父のことは好きではなかった。
一緒にいる時間は稽古の時がほとんどで、上から響く、厳しくて威圧感を覚える低い声が苦手だった。
『お前は才能がある』
『サボらず努力しろ』
『稽古を怠るな』
やかましいわ、という感想以外出てこなかった。
自分が何を持っていようが、それをどうしようが、そんなの自分の勝手だろうに。
でもそんな事を全部言ったら、母は少しだけ、悲しい思いをするのかもしれないと思ったから、言わないだけだ。
母の事は好きだ。
だから、父の事はなるべく悪く言わなかった。
母は父の事が好きだから。
好きな人の事を悪く言われて、気分が良くなる人間なんてほぼいない事くらい知っている。
だから、言わない。
母は自分の正面に座って本を読み始めた。
ぱらりぱらりと、普通の人より格段に速い速度で本をめくり、その手を止めることはない。
速読はコツさえつかめれば出来るそうだが、自分には出来る気がしなかった。
時計はもう直ぐ23時を指す。
母の寝る時間はまちまちで、この時間に寝てしまうこともあった。自分はまだ眠くない。
居間に戻ったところで父がいるだろう。
部屋に行ったところであまり集中も続かないだろう。
だから、一応聞く事にした。
「……まだ一緒にやってて良い?」
「ええよ」
当たり前のように答えてくれた事にホッとして、寝る時間まで勉強を続けた。
言葉少なだが、母は褒める時は褒めてくれた。
褒められるのは厳しくされるより嬉しかった。
叱られるより、ずっとずっと良い。
だから母と勉強を続けられた。
母との時間はもちろん好きだった。
だが、年を重ねるごとに、そこに打算も混じっていったのは事実だ。
父の事が嫌いだった。
柔道家の父は、自分に期待でもしていたのか、とにかく厳しかった。
母と違って押し付けがましく、厳しいだけで、興味のないことをやらせ続ける父と過ごす時間が嫌いだった。
家で一緒に過ごすのも、あまり好きではなかった。
自分がテレビを見ていたり、暇そうにしていると道場に来いだの、体を鍛えろなど、二言目にはそんなことばかりだった。
だが母と勉強している時、そんな言葉は一切かかってこなかった。
父は母を愛していた。
体の弱い母を常に労わり、家事をよくやってたりもしていた。
母のする事に一切の邪魔をしなかった。
母に接する態度にはいつだって、粗野な父なりの気遣いと敬意があった。
父の事は嫌いだが、その一点においてのみ『嫌悪』にまで至らなかったのだと思う。
勉強さえしていれば、父のやかましい言葉を聞かずに済んだ。
母と一緒にいる時、父の粗暴な態度がほとんど出なかった。
母といて勉強すれば、嫌な事から逃げられる。
そんな邪な気持ちがあった事は、全く否定できなかった。
自分の思っている事は母も気付いていただろうが、何も言うことがなかった。
否定されない事に安心して、母と居続けた。
学校に行って、母と勉強して、たまの嫌な事をして、そんな日々を過ごしていた。